不夜城に降り注ぐしろい月光を薄暗い路地裏から眺めながら、天羽はゆっくりと息を吐き出した。棗がバーを開店して一ヶ月。この日が訪れる事は百も承知だった。しかし、現実は何時も想像するよりずっと辛いものだ。
「サーシャ、やっん、まって────」
薄い扉の向こうから艶やかな声が微かに聞こえ、おおきく身震いをする。聞いた事の無いその声質は、まるで融けた砂糖菓子のように甘い。
「どうして、好きだろう」
続いた低く深みのある重い声に、再び天羽の身体は震えた。
「そこは、ダメ」
「良いじゃないか。君のそんな姿をまえに、我慢など出来る訳がない」
扉とはこれ程薄い物なのだろうか。ふたりの湿った会話が何の障害もなく耳に届いてしまう事に天羽はとてつもないもどかしさを覚えた。とは言え、アレクサンドルに少しだけ扉前で見張っていてくれと頼まれてしまったのだから仕方がない。
「もう、ダメだって。ここはお店なんだから、エッチは帰るまで待ってって言ったでしょう。それに、外で天羽さんが待っているから」
突然自身の名が飛び出し、天羽はひとり大袈裟に狼狽えた。中で慌ただしい物音がして、直ぐに扉が開かれる。
「ごめんなさい、どうぞ」
乱れたシャツの襟元を慌てて直しながら、棗は不器用に微笑んだ。うすい頬は紅潮し、息は微かに上がっている。上下する頼りない肩を見詰めながら、天羽は取り繕うように微笑んだ。
今日、バーを開店して以来初めてロシアから来日したアレクサンドルが店に訪れた。勿論彼はこの店が天羽の為の店である事は知らず、単に棗が暇潰しに持った店だと思っている。
「見てくれ巽、私の棗はこんなにも美しい」
アレクサンドルはうっとりと組んだ手に尖った顎を乗せ、カウンターの向こうで氷と奮闘する棗を見詰め呟いた。光沢のある黒いシャツに細身のスラックス。品の良いタブリエに至るまで、アレクサンドルの趣味に違いない。少し前まで痩せ過ぎていたが、どれも最近取り戻した完璧な身体のラインが一枚の布越しと言う制約の元最も美しく見えるよう計算されている。するりと落ちた撫で肩や、腹から腿にかけ薄く張った美しい筋肉、しなやかな腰元から流れる形のいい臀部。どれを取っても妖艶で言葉もない程である。
「君程美しいものはヴィーナスのいない今、最早この世にはない」
天羽の眼前と言う事も何ら気にせず、相変わらず融けるような甘い声でアレクサンドルは棗を讃美する。まるで変わらぬその様に、天羽は薄く微笑んだ。
「もう、天羽さんが困っているから」
耐え切れず咎める棗をまえに一応にも納得したのか、アレクサンドルはカウンターから天羽へ視線を流すや低く問い掛けた。
「客は来ているのか」
「いえ、ご報告した通りです」
「そうか、それは良かった」
この店に、未だ客はひとりしか来ていない。この立地条件では当然と言えば当然だ。しかし当の棗は頬を軽く膨らませて見せた。
「良くないよ。突然サーシャが逮捕されたり殺されたらどうするの」
それは全く夢物語ではなく、アレクサンドルと関わる全ての人間が真っ先に考えなくてはならない事。彼は裏社会に身を置き、そして数えきれぬ罪を犯しているのだから。
「大丈夫。巽に君の事は全て任せてある」
しかしアレクサンドルは平然とそう言ってのけると、丁度差し出されたウイスキーを一気に煽った。そして真っ直ぐに棗を見詰め、一段低い声で囁いた。
「何より君たちにとって、私が消えた方が都合が良いのでは」
棗の顔からさっと血の気が引いてゆく。男も女も楽々と手玉に取っては薄く微笑んでいた彼が胸に抱く、天羽への純粋な愛。隠す事も出来ないその想いを、天羽は愛おしく思うと共に深い罪の意識に苛まれた。
しかし棗が狼狽えている今、切り抜けるには自身が動かなければ。その思いから、天羽は鋭い横顔を静かに叱責した。
「分かっている筈でしょう。私が貴方を裏切る筈がないと」
自身が信じ崇める存在が、目に見えぬ神ではなくなってより、天羽の心に常に存在しているものはアレクサンドルである。それは、例え棗を愛していたとしても変わる事はない。アレクサンドル自身、それをよく知っている。故に身も凍るような嫉妬に呑まれていた彼は、天羽の言葉で直ぐに厳しい表情を崩した。
「冗談だよ、怒らないでおくれ巽」
ほっと溜息を吐いたものは、棗であった。自身が動じなければこの関係がバレる事はない。天羽は幾度目かそう言い聞かせ、未だ震える手で差し出されたウォッカを受け取った。自分で重くした空気を嫌ったのか、アレクサンドルは唐突に周囲を見回した。
「何か音楽をかけよう」
探るような視線から解放された棗はやっと心を落ち着け、そんな彼に何時ものように微笑んだ。
「音楽はかけないの。だから機材も入れていない」
「何故」
「静かに、眠らせてあげたいから────」
天羽はその言葉で、胸を圧し上げる熱い血潮に呻いた。
望んではいけないと分かっているのに、棗の想いを目の当たりにすればするほど、彼を求めてしまう。その細い身体を抱き締めて、棗の望むまま愛してやりたい。だが、アレクサンドルを想うとまた別の感情が湧き上がる。この命が今続いている事、棗と出逢えた事、何もかもアレクサンドルが絶望の深淵で蹲っていたこの手を引いてくれたから存在している。恩などと言う生易しい言葉などでは説明がつかない。天羽にとってアレクサンドルは、誰が何と言おうとも肯定しなくてはならない存在である。
信じる男と、愛する男。その狭間で、天羽はいつも苦悶を喘いでいた。
それから一週間、アレクサンドルは日本に滞在し、名残惜しげに母国へと帰って行った。アレクサンドルが日本にいる間、日々棗の白磁の肌には凶暴な赤い華が咲き乱れ、身体の痛みに動きも鈍くなっていた。歪んでしまった純真や、棗を生かす為に自身も傷付き続けるアレクサンドルを哀しく思うと共に、彼が心の底から棗を愛している事を、天羽は突き付けられた気がした。
「天羽さん!」
突然耳元で名を呼ばれ、天羽は驚きに身を強張らせた。慌てて我に帰った視界の中心、思いの外近くに棗の顔が迫っていた。
「え、はい、何ですか」
触れてしまいそうな距離に、慌ててちいさな椅子のうえで身を引く天羽の腕を掴み、棗は唐突に瞼を閉じた。バーのうすい光が長い睫毛を煌めかせ、うすい頬に長い影を落としている。やはり、棗は美しい。
「ん」
「えっ」
混乱する天羽をまえに、棗は頬を膨らませて見せる。
「敬語」
気を付けていなければついうっかり敬語が出てしまう。そうなれば自分からキスをしなくてはならないのだが────。
「……出来ない」
天羽はゆっくりと首を振り、力なく呟いた。
「は?」
途端に美貌は尖り、似合わぬ粗野な口ぶりになる。しかし今日だけは天羽も譲れなかった。
「やはり、トルストイ氏が貴方をあれ程愛している事を突き付けられると、どうにも……。貴方もやはり、その、男性ですし、やはりトルストイ氏は数ヶ月に何日かしか来ませんし、かといって、私は、その……どうしてもキス以上の罪を許す事は出来ません」
自分も男だから分かるのだ。触れれば触れる程、呑まれてゆく感覚。扉の外で初めて聞いた棗の声は、やはり愛欲の悦びを知っているものだった。けれど自身はそれを与えてはやれない。だからこそ天羽にとってそれは決別の言葉でもあった。棗の幸福の為には、やはり身を引くべきなのだと────。
しかし当の本人はまるで蔑むように俯く天羽を見下し吐き捨てた。
「もしかして聞いていたの。どスケベ」
全く、普段は二十代とは思えぬ程大人びた色気を纏っている癖に、これが素なのだから恐れ入る。身を引きながら、天羽は不貞腐れたように呟いた。
「……いやでも聞こえます」
棗はそんな天羽をまえに薄くため息を吐くと、一度その場を離れ扉に閉店の看板を掛け、再び天羽の眼前に立った。
「ねえ、天羽さん。触って」
「えっ」
狼狽える天羽の手を取り、棗は自身の薄い胸に押し当てた。
「俺の胸はね、何時もこんなにも高鳴っているの」
憂い気に薄く瞼を伏せ、棗はゆっくりと言葉を紡ぐ。
「貴方の事を愛しているから」
彼と出逢い何度目か、余りにも美しいと、天羽は震える心地がした。アレクサンドルが讃美する美貌は、不本意ながら彼が傷付き憂いている時により強い光を放つ。そう思う事もまた、天羽を苦しめているのだが────。
天羽がしらぬところで苦悶していると、不意に棗は瞼を開き何を思ったか片手で器用に自身のシャツのボタンを外し始めた。
「何を」
「良いから、動かないで」
全てを外し終えると、棗は握った天羽の掌をゆっくりと自身の素肌に這わせた。驚きに言葉もない天羽を見詰める双眸は、羞恥と恍惚に煌めいている。
「貴方は何もしていない。俺が、貴方を想ってひとりで慰めているだけ」
まるで美しい青年の自慰を見せ付けられているようで、堪らなかった。しかし自身を真っ直ぐに見詰め白磁の肌にざらついた天羽の指先を這わせる棗の姿はとても痛々しく、胸が締め付けられるようだ。
「セックスは、していないでしょう」
戯けた風を装いながらも、耐え切れぬ涙が頬を撫でた。
「貴方と言うひとは」
堪らず、天羽はひとまわりもちいさな身体を胸の中に抱き寄せる。微かに震える腕を回し、甘い涙声が耳元で囁く。
「愛しているの」
分かっている。この心も愛していると叫んでいる。しかし、応えることが出来ない。戒めのように、棗を見詰めるアレクサンドルの顔が天羽の脳裏に焼き付いて離れないのだ。
長い時抱き締めあいどちらともなく身体を離すと、棗は天羽の指先をくちびるに導いた。
「キスをして、天羽さん」
母にねだる子供のように、幼い声だった。天羽はくちびるの端にそっとキスを落とす。愛おしさだけが、溢れてゆく。
「ここにも」
導かれた指先が、左の首筋、アレクサンドルが残した痕に触れる。棗の望むまま、口付けを落とす。
「ここにも」
鎖骨のした、吸い上げるように触れる。棗はふるりとちいさく震え、短く喘いだ。そのままゆっくりと下降した指先は、薄い胸に飾られた薄桃色の蕾に浅く触れる。
「ここにも、して」
余りにも艶美な誘惑に、天羽は頬が燃える心地がして慌てて握られていた手を引いた。
「その手には乗りません」
「もう!」
棗は膨れたあとに悪戯っぽくちいさく笑うと、そっと天羽に身体を預けた。
「天羽さん────」
薄暗い店内に、優しい声が満ちる。
「貴方を愛しているから、こんな気持ちになる。何時だって、俺は貴方が欲しい」
美しい青年が優しく囁くように愛を告げ、濡れて煌めく瞳をうすく閉じまるで少女のように口付けを待つその可憐な魅力をまえに、逆らう事など出来はしない。
俺も、貴方が欲しい────その言葉の代わりに、天羽はそっとくちびるを塞いだ。触れるだけのキスに頬を染めた棗は、細い腕を首に絡め微笑んだ。
「ねえ、地獄に堕ちる日が訪れたら────」
天羽は続く言葉を待たずしなやかな腰に腕を回し、よく動くくちびるを再び塞いだ。舌を絡めることもなく、食むこともなく、只々重ね合わせたうすいくちびるから、ふたりは償えぬ罪と狂おしい罰を感じ、そしてまたそれ故に深まる愛おしさを共鳴させた。
くちびるが離れた途端照れたように胸に顔を埋める棗のほそい身体を抱き締めながら胸の内で告げる。この命の果てに待ち受ける地獄に堕ちたその時は、必ず共に歩もう、と────。
了
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