クリスマスの思い出は、何かありますか。
棗さんなら、きっと素敵な思い出があるのでしょうね────と、この時期になると必ずと言って良い程男女問わず客に聞かれる質問。繁華街から少し外れた路地裏にバーを構えてから二年と少しだが、既にもう飽き飽きしている。
何時も通り答えは、ある訳ねえだろ────だ。勿論、口には出さないけれど。
カウンターから微かに身を乗り出し俺に下らない質問を投げ掛けた女性客は、最近通うようになったひと。一見を断っている訳ではないけれど、趣味でやっている為に薄暗い路地で暗闇と同化するような店構え。ふらりと立ち寄るひとは極めて少ない。彼女も例に漏れず、確か繁華街の風俗嬢のツレだった。それが今や、ひとりで足を運ぶほどになったのだ。
ここはオーナーである俺目当ての客しか来ないような店。それなりに良い酒はあるが、好きなひとはもっと良いバーに行くだろう。だから彼女も例に漏れず、俺との会話を楽しみにやってくる。
彼女への返答を少しの間思案した後、ふとカウンターの隅に視線を馳せ、随分と古い記憶を思い出した。
「初めてのキスは、教会で、丁度クリスマスでした」
初めてではないけれど、何と都合の良い思い出だろうか。そう言えば俺にとってのクリスマスが、美しく清廉なものに捉えられるだろう。予想通り、女性客は熱い溜息を吐いた。
「ロマンチックね」
「ええ。真昼の太陽がステンドグラスを貫き、辺りの色彩を呑み込んでいてね。この時期になるといつも思い出します。あんなキスがもう一度してみたい────」
彼女に合わせうっとりと微笑むと、カウンターの隅に座っていた天羽さんが盛大に噴き出した。瑀琳が慌てて水を渡しているが、彼は壁を向いて噎せている。だが夢中な彼女はそんな事に微塵も意識を囚われる事なく、俺に向かいまたひとつ身を乗り出した。
「お相手はどんな方だったの」
お相手は、カウンターの隅に座っているよ。
「一途で、真面目で、シャイで、困り顔がとても可愛らしいひと」
「羨ましいわ」
軽く微笑みを返し、その後は適当な会話を楽しんだ。
あのクリスマスのキス────あれは、青春の輝かしい思い出などでは無かったけれど、俺にとっては今も尚色褪せない、美しい罪だった。
午前二時、閉店────。漆黒の扉に鍵を掛け、今日からこの店も三連休。
「それじゃあ瑀琳、素敵なクリスマスを」
俺のその言葉を、隣にいた天羽さんが流暢な中国語で通訳してくれた。少しは中国語を勉強しようかとも思ってはいるが、相変わらず俺は瑀琳が日本語を喋れるようになる日を待っている。少しづつではあるが、喋れる言葉も増えては来ている。ぺこりと頭を下げ歩き出す瑀琳の頼りない背中は、少しだけ大きくなった気がした。
ユーリンが店の客である林さんと付き合うと言い出した時、まさかと思った。けれどどうやら屑男だったその林と言う男は、天使のような瑀琳のお陰で随分と更生したようで、今ではとても大切にしてくれているらしい。今日もこれから林さんの家に行き、明日はふたりで何処かに出掛けるのだと、瑀琳は気恥ずかしそうに話してくれた。
十二月二十三日────。世間は既にクリスマスモード一色ながら、俺たちもまた浮き足立っているかと言われるとそうではない。店も二十四日から三日間の休みを取った。瑀琳への配慮と言うより、それは例年通りの事で、俺自身がこの日本のクリスマス商戦に踊らされたお祭り騒ぎに未だ馴染めないから。店の過度な飾り付けがまるで義務のようになっている事も気に食わない。誰もが皆キリストの降誕を喜んでいると思ったら大間違いだ。
ふと隣を見ると天羽さんは何時も通り、俺の動きに忠実で、今も歩き出さない俺を待ちながら微かに肩を竦め、黒いロングコートの襟を大きな手で持ち上げ北風に立ち向かっている。何時も思うが、余計な装飾を嫌う彼の首元は寒そうだ。
「行こうか」
俺が歩き出すと、天羽さんはその後に続く。
掻き入れ時の繁華街は何時もよりも賑々しく、眩いネオンサインの点滅に目の裏側が痛くて、俺たちは早々にタクシーに乗り込んだ。十分ほどの道程、車中で会話は無い。そもそも俺が話さなければあまり会話はない。これは、何年経っても変わらない。
自宅マンションから少し離れた位置でタクシーを降りて、ふたりで大きな公園の中を歩く。深夜の今はもう誰も通らない。橙色の街灯の下、人の目があると立場を弁える馬鹿真面目な天羽さんが漸く肩を並べて歩いてくれるこの時間が、俺にとっては心地が良い。
街灯の下のベンチに、俺たちは並んで腰を下ろした。舗装された道がぐるりと広大な芝生を囲んでいて、薄闇の中寒々しく浮かび上がっている。もう随分と冬が厳しくなってきた。明日辺り、雪も降るのでは無いだろうか。そうしたらホワイトクリスマス。世間はもっと大騒ぎだ。絶対に家を出たくない。
「……トルストイ氏は、何時」
珍しい天羽さんからの問い掛けは、そんな憂鬱に拍車をかけた。
「明日の夕方。サーシャも今随分と大変なのでしょう。別に来なくったって良いのに」
「棗を大切に想っているから」
気を遣ったのだろうけれど、俺はついカッとなって睨み付けた。
「それは何。嫌味か何か」
「そんなつもりは……」
語尾を濁し、天羽さんは俯いた。図体ばかりでかい癖に、天羽さんのヘタレっぷりには何時も呆れてしまう。
「さっきの話、聞いていたのでしょう」
天羽さんは小さく首を傾げながら俺を振り返る。惚けた男の耳元に、そっと唇を寄せた。
「もう一度、あんなキスがしてみたい」
慌てふためいて周囲を見回す彼の横顔が可愛くて、それと同時に、天羽さんを想う事が苦しくなる。
俺たちは主を最も残酷な形で裏切っている。この関係がバレたら、当然互いに命なんて無い。いいや、死んだほうがマシだと思わされるような仕打ちを受けるに違いない。彼が多くの時をロシアで過ごしているにしても、良く今の今までバレずに済んでいるものだ。
急に寒さを感じ、ロングコートのポケットに悴んだ手を忍ばせる。指先が触れた瞬間びくりと強張る肩に、そっと頭を預けた。
「天羽さんは、何時発つの」
「年末はロシアの方にと、言われている」
「年末って……それもう直ぐじゃん」
サーシャが日本に来るから、そうではないかと思って聞いたのだけれど、天羽さんの態度に俺は酷く苛立った。何時もこのひとは俺が聞かなければ勝手に居なくなる。無事に帰る保証なんてどこにもないのに、何も言わず俺を置いて行くなと、何度も何度も繰り返し叱ってもその癖は未だに直らない。一週間に一度はこの質問をしないと、本当に黙って何処か遠くへ行ってしまう。
苛立つ俺の横顔を恐る恐る覗き込み、天羽さんは取り繕うように眉尻を下げた。
「マトリョーシカを買ってくる」
「は?」
そんな物で俺のご機嫌取りとは、随分と舐められたものだ。
「何マトリョーシカって。普通に考えていらないでしょ。それにそんな物サーシャが大昔にくれた。速攻捨てたけど」
天羽さんは得意の困り顔で俺を見詰めているが、俺に許してやる気は更々ない。
「瑀琳、今頃林さんの腕の中で眠っているのかなあ」
別に、世間と同じように過ごしたい訳じゃない。自分の立場もわかっている。けれど彼を困らせる事で、俺は天羽さんを繋ぎ止めているのだと思う。きっと俺がこうでもしない限り、天羽さんは離れて行ってしまうから。彼が欲しいものは俺では無い。俺の幸福と安寧だ。だからこそ、俺たちは互いに想い合いながら、この距離を打破する事ができない。俺はこんな風に想われた事がなくて、何時も手間取っては傷付ける。
胸の中でそう思いつつも、何時ものようにつらつらと文句を並べ立てていると、不意にポケットの中で指を絡め取られ、俺は思わず減らず口を閉じた。
「棗────」
珍しく名前を呼ばれ、心臓が大きく跳ね上がる。天羽さんは掌に乗る位のほんの小さな紙袋を俺に握らせ、そして何処か寂し気に微笑んだ。熱い心臓が早鐘を打ち、冷え切った頬が、巡る血脈にじわりと温もりを帯びてゆく。
「……開けても、いい?」
天羽さんは照れ臭そうに頷いた。慎重に紙包を開き逆さにすると、小さな物が掌に転がった。街灯に透かして見てみると、それは小さなラピスラズリがひとつ付いているだけの、シンプルなピアスだった。最近気に入っていたものを失くし、先日天羽さんに散々愚痴を零した。薄い反応だったから、聞いていないと思っていたのに────。
「覚えていてくれたの、付けてもいい?」
相変わらず照れ臭そうに天羽さんは頷く。きっと、ひとに物をプレゼントした事なんてない筈だ。一体どんな顔でこれを買ったのか、想像するだけで悶え狂いそうだ。
天羽さんが初めてくれたプレゼントを付け、俺は子供のように得意になって、右、左と何度も彼に向けて見せびらかす。
「どう、似合う」
垂れた目尻を細め何度も頷く天羽さんが愛おしくて、思わず厚い胸に飛び込んでいた。天羽さんは戸惑いながら不器用に腕を回してくれる。その温もりに包まれ、一際寒さが身に染みた。
どうして、サーシャが明日来てしまうのだろう。こんなにも幸福な夜を過ごして、明日になればそれが全て消え失せてしまうなんて。
「痕が残らないように、貴方と身体を繋げる事が出来れば良いのに」
天羽さんの熱をこの身体に閉じ込めておけたなら。ぽつりと零した俺の言葉の意味を噛み砕いて、天羽さんは小さく唸った。
「……それは不可能だと思うのだが」
信じられないボンクラ発言に、俺は思わず胸に預けた頭で思いっきり頭突きを見舞った。
「俺は今誘ったんだよ」
この変わり身の早さは慣れた筈なのに、天羽さんの顔は途端に引き攣る。それがまた、愛おしかった。
「本当、相変わらず鈍いんだから」
一度離れた手をポケットの中に再び忍び込ませ、固まる指先を絡め取り俺は薄く瞼を閉じた。
「ん」
「えっ」
「して」
意図が分かった途端、天羽さんは絵に描いたように狼狽えた。
「いや、そんな、困る……」
オクテもここまで来ると厄介だ。仕方がなく、俺から凍える唇にキスをした。
例えば俺に罪を放棄し、死を覚悟してもこの愛を貫く勇気があったなら、例えば天羽さんに俺を思い遣る優しい心よりも、愛の激情があったなら────。俺は何時もそれを思い、そしてそんな自分を嗤う。
俺たちの行く先にはもう、地獄しかない。だからこそ俺たちは今この瞬間を生き、そして誰の目にも触れずに愛し合う。この身が誰の物だとしても、どれ程罪深い人間だとしても。
鞄の中から取り出したマフラーを、寒々しい首に掛けてやる。
「はいこれ持ってって。ロシアは寒いから」
「これ……俺にか?」
驚きに目を見開く天羽さんが可笑しくて、俺は笑った。
「客に貰ったの。別に、わざわざ買った訳じゃないからね」
相変わらず捻くれ者の俺の言葉を受け、それでも照れ臭そうに黒い毛糸のマフラーに鼻先まで埋めた天羽さんの横顔は、この男に最も似付かわしくない幸福に触れているような心地がした。頬に、触れるだけのキスをする。
「メリークリスマス、イブのイブ」
濃紺の空から、白い綿毛がひとつ、俺たちの鼻先を掠めるように舞い降りた────。
了
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