『この花の似合うひと』


 サン・マルコ広場の昼下がりは、無数の人と鳩に埋め尽くされている。仕事の為このヴェネツィアに停泊して早二週間。ターゲットは最近彗星のように現れた若いマフィアのボス。トルストイ氏の依頼だから、凡そ麻薬市場に特化した人物なのだろう。その関係でトルストイ氏が疎ましく思うようなかなり無理のある仕事をしているのだろうけれど、その辺りの事はなるべく深く立ち入らないようにしている。
 しかし相手はその筋に相当反感を買っている自覚はあるのか、さすがに警戒心が強く、膠着状態が続いている。一応その予想は出来ていたから一ヶ月の滞在を予定しているが、果たして間に合うのだろうか────。

 昼食がてら寄ったカフェで物思いに耽る事にも飽いて、昨日届いた手紙の封を切る。三枚の便箋にはびっしりとキリル文字が並んでいた。
『親愛なるヨハン────。ヴェネチアの夏は良いものか。仕事が終わったら、リヨン駅を口ずさみながらカプリ島へでも足を伸ばしてみたらどうだろうか。君にはその位能天気な時間も必要だと私は思っているよ』
 手紙の書き出しはそんなたわいもない事だった。その後は延々と、ひとりのひとへの大袈裟な賛美が書き綴られている。

 蘇芳 棗────。手紙の主アレクサンドル・イリイチ・トルストイの目下執心する相手の名だ。まだ十七歳の少年だが、確かに彼はこの世に二度とは生まれないであろう類い稀な美貌の持ち主であった。トルストイ氏の手紙には、如何に彼が美しい少年か。そして、まだ未成年故に瞳で愛でている事。最近退屈だからと男も女も見境なく引っ掛けては心を掻き乱してくる事。二十歳になればこの辛抱が実り、漸くふたりは愛の祝福を受ける事が書き綴られている。
 しかし俺はそんな彼の手紙を微笑ましく読む事が出来なかった。
 蘇芳 棗と言うその少年に初めて出逢ったのは、もう何年も前の事。当時日本に来たばかりだった俺は、住宅街を散歩する事が楽しみだった。日本に息衝く平和を眺める事が、楽しみだった。
 しかしその日本で、気が触れたように泣きながら走る少年を見た。彼はまだ、小学生だったように思う。チェチェン紛争以来二度目だった。飛び降りる人間の背中を見たのは。豪雨の中を傘も差さず、何かに追い立てられるようにして走り出した少年。金網を蹴った彼の背中には、まるで朽ち果てた羽が見えた。

 胸につかえる何かを吐き出すように浅い溜息を吐いて、再び手紙に視線を落とす。
『いつも通り、私の名で聖ナザレ園に援助をしておいた。今回の報酬でとの事だが、当面の生活は困らないのだろうか。もし無理をしているようならば、私が君の助けになるから、遠慮なく言うように。身体に気を付け、無事に戻って来てくれ────アレクサンドル』
 手紙はそう締めくくられていた。初めて出逢ってから蘇芳棗と言うあの彼が聖ナザレ園と言う児童養護施設にいる事を知り、その園の存在をトルストイ氏に知らせ、子供好きでカトリック教徒であった彼に資金の援助をしてはどうかと提案したのは随分と前の事だ。勿論、その金の工面は俺でするからと。あの少年の助けになれば良いと思っての事だった。
 けれど、それから数年後のクリスマスに再会した彼は、随分と変わっていた。絶望の中でもがき苦しみながら、その手で犯した罪の数々に圧し潰されているようで、堪らなかった。この手で奪った命への安息を願う祈りに、それからその少年の幸福が息衝いた。
 しかし俺の心に住まうようになったその少年は、今や俺の神とも言える男の愛するひととなった。

「Buon giorno, Signore!」
 軽やかな声にふと顔を上げると、可愛らしい少女が俺に向かい薔薇の花を一輪差し出していた。イタリアの花売りはモロッコやアルバニアの中年男性が殆どであるのだが、こんなにも可愛らしい少女の花売りは珍しい。
「お花はいかが」
 スカイブルーの瞳に栗色の巻毛を揺らし微笑む彼女が余りにも愛らしく、俺は彼女から薔薇の花を一輪買った。
「Grazie」
 外国人があまりに流暢なイタリア語で礼を言った事に驚いたのか、彼女は頬を緩めた。
「イタリア語がお上手ね」
「仕事でよく来るものだから」
 へえ、と小さく漏らすと、彼女のくりくりと丸い瞳はじっと俺を見詰めた。見透かされるようだった。この背に背負う罪の重さも、先程から喉元につかえた、不気味な影も。
 ふと彼女は何を思ったのか、ポケットから小さなハンカチを取り出し俺に向かい差し出した。どこかから盗んだのか、まだタグが付いている。
「涙を拭いて」
 そう言うと、彼女はスカートを翻し次のテーブルへと移って行った。
 彼女の背中を眺めながらふと喉のつかえが失せた。ああ、俺は哀しかったのか。そう思った。あの少年が二度と想ってもならないひととなった事が、想像以上に哀しかったのだ。何処までも図々しい思考を打ちのめすように、腰を上げる。仕事をしなくては。罪に、手を染めなければ────。

 それから、仕事を終え日本に帰国し北海道で彼と再会を果たした。俺の想像以上に、彼の心は傷んでいて。彼を愛しすぎたトルストイ氏の力ではもう、引き上げる事は不可能だった。けれど俺が手を差し伸べる事はできない。彼にとっての救い主は、トルストイ氏でなければならないから。
 相変わらず俺は彼を見守った。相変わらず彼の幸福を祈った。それが何時の間にか、長い時を経て実を結んでいた。自分でもとても驚いている。モスクワの路上でトルストイ氏に見付けられ、何もかもを棄て生きる事を選んだあの日。神が偶像ではなく、彼だと悟ったあの日────こんな気持ちになるなどとは夢にも思ってはいなかった。

 開店祝いに出向いたバーで、思い詰めたように共に罪を犯そうと言った彼は、薄い桜色のくちびるを震わせ、深い闇色の瞳にうっすらと涙を溜めていた。きっととても緊張していたのだろう。俺はあの時に、ああ、愛おしいと感じた。トルストイ氏を裏切る行為だと思えば拒絶しなければならないが、俺はまた、神を裏切るのだ────そう思えば、納得がいった。
 何という生き方なのだろうか。罪のうえに立っていなければ、息さえも続かないなんて。けれど俺たちは、それでも生きなくてはならない。

「どうしたの」
 不意に声を掛けられ顔を上げると、薄暗いバーカウンターの中でグラスを磨きながら彼は心配そうにこちらを見詰めている。美しすぎるその顔は、たまに直視することさえ気恥ずかしくなってしまう。
「いえ、少し昔のことを思い出していまして」
 咄嗟に愛想笑いで俯くと、彼は視線を掬うようにカウンターから身を乗り出した。
「ほら、また敬語」
 黙っていれば声すらも掛けられない美貌を惜しげも無く崩し頬を膨らませる彼は、とても愛くるしい。思わず破顔しそうになりながらも、俺はちいさく頭を下げた。
「ああ、すみません」
「また」
「ああ……」
 俺たちは最近、敬語をやめる訓練とやらを始めた。未だ開店して日も浅いこの店は、立地条件の悪さから客が全く来ない。そもそも客を入れる気は無いのだろうが、そのお陰で彼を見張る役を仰せつかった俺と、バーが空いている間は二人きり。正直、とても緊張する。心臓は常に早鐘を打ち、頬が熱を持つ程。俺から視線を移し、大きな氷をアイスピックで丸く整える練習をしながら小言を言う彼の声は澄み通り耳に心地良く、伏せた睫毛の長さがダウンライトによってより鮮明に浮き上がっている。
 幾度か彼に誘われるでは無く、例えば悲しみに沈む彼を慰める為だとか、その場の空気に巻かれ衝動的に俺からキスをした事もあったが、どうしてこの美しいくちびるに触れようと思ったのか冷静に考えると自分でも恐ろしくなる。
 それでも視線が絡まない間はついついその美しい姿に見入ってしまう。しかし彼は直ぐ視線に気付く。ふと顔を上げ一瞬目が合った瞬間、俺はまた素知らぬ顔をして視線を逸らした。
「天羽さん」
「はい」
 俺のその短い返答に、彼はおおきな溜息を吐いた。
「もう、次敬語使ったら一回ごとにキスね」
「えっ」
 大袈裟に狼狽える俺を、鋭い視線が射抜く。
「何、いやなの」
「そう言う訳じゃ……」
「じゃあ棗って呼んでみて」
 また俺は狼狽えた。どうしても気恥ずかしさからその名を呼ぶ事を躊躇ってしまう。

 その時、突然控え目なベルの音と共に扉が開いた。俺よりも彼の方が驚いたようで、一度ちいさく飛び跳ね、瞳を見開いて固まっている。初めての客に緊張しているようだが、このままではいけないと爪で軽く机を叩く。彼はそれで我に帰ったのか、固い笑みを浮かべながらちいさく頭を下げた。
「いらっしゃいませ、今晩は」
「良いですか」
 背後から聞こえた声は、男のものだ。年の頃は三十半ばか。彼は慌ててカウンターを出て、客のコートを受け取り俺からひとつ席を空けた位置に導いた。慣れないようだが、それなりに見えるのは彼だからなのだろうか。俺は出来るだけ気配を消し、必死で不慣れな接客をする彼を見守った。困るとどうやらカウンターの下で指先をかすかに握る癖まで見付けてしまい、それはそれで中々楽しかった。
 しかしものの数分でもう客の男は熱っぽい視線を彼に向けている。これはトルストイ氏が心配して暇な時は常に店にいるよう俺に指示した理由も納得がいく。彼は人を嫌でも惹きつける美貌を持っていながら、その心に堕ちた闇故にとても弱く儚く見えるのだ。その儚さは、庇護欲と征服欲の両方を大いに刺激する魅力を兼ねた危険なもの。
 実際に彼は、それ程に弱いひとではない。重い罪を背負いながらも生きようとする強さがある。とは言え、彼を知らぬひとが見れば、彼は夜の街に突如舞い降りた美の化身。それが何処か傷を負って見えるのだから、その隙間に忍び込もうと思う心理は当然の事のように思われた。

 結局初めてのその客は、二時間ほど居座りとても満足し頬を赤らめて帰って行った。俺の存在が気にはなっていたようだけれど、俺は特にカウンターの中の彼とは会話もせず、黙々と酒を進めていたから客の男もシロと踏んだようだった。帰りしなの勝ち誇ったような流し目が気にはなったが、俺はその客をそれ程危険視する類の人種ではないと踏んだ。
「びっくりしたね」
 再び二人きりになった店内で、彼はそう言いながら胸に手を当ておおきく溜息を吐いた。随分と気を張ったのか、心なしか疲れたように見える。
「閉めるね」
 時刻は既に一時を回っていた。ちいさな看板を持って戻った彼に、俺は労いを込めて微笑みかける。
「お疲れ様でした。さすがですね、様になっていましたよ」
「あっ」
 彼は何故か嬉しそうに声を上げ、漆黒の双眸を輝かせた。一体何のことか分からない俺の胸を指先で押し、不敵な笑みが浮かぶ。
「敬語使った」
 あっ────。気付いた所でもう遅い。彼はもう勝利を手にしたような顔をしている。
「目は閉じていて欲しい。それとも────」
 そっと胸にしなだれ掛かり、彼は潤んだ瞳で俺を見上げる。
「閉じさせてくれる」
 ああ、本当にどうしてこうも彼は魔性なのか。全く参ってしまう。
 彼は大袈裟に狼狽える俺を急かすように、そっと瞼を閉じた。長い睫毛に乗った光の粒が、ひとつひとつ数えられる程の近い距離に怯え身を引いた瞬間、背凭れの無い椅子から俺は見事に落ちた。当然もたれ掛かっていた彼も一緒になって倒れこんだが、無意識の中でも腕がしっかりと胸に抱き寄せていた。怪我も心配はなさそうだ。
 彼は慌てたように起き上がり心配そうに俺の顔を覗き込む。
「大丈夫?」
 正直、背中から見事な落下をした身体は節々が悲鳴を上げてはいるが、俺は痛みに強い。何とか大丈夫と言って微笑むと、彼の美貌は途端に程よく崩れた。
「天羽さんって、可愛いひとだね」
 彼はそう言ってからかうように肩を揺らして笑う。その顔が余りにも無邪気なものだから、軽い仕返しのつもりで緩んだ唇にそっと口付けた。不意打ちを食らった彼は、先程の俺と大差無い程に狼狽えながら俺の肩を軽く叩いた。
「そう言うのは反則」
 頬を紅潮させる彼もまた、可愛いひとだ。

 見詰め合うだけで痺れる空気、絡めた指先から伝わる愛おしい熱────俺たちは倒れこんだままに、どちらともなく幾度も優しい罪を重ねた。

 互いの胸の内で、トルストイ氏を想う。この裏切りが白昼の元に晒された時、俺たちの間には死を待たずして真の地獄が訪れるだろう。トルストイ氏をも巻き込む、苦悩に満ちた地獄が────。
「何も、言わないで」
 俺の不安を感じたのか、彼はそう言うと胸に顔を埋めた。ちいさな背中を緩いリズムで叩く俺の胸の中、啜り泣く声だけが静かに響いていた。
 誰かを想うそれだけで、罪深きものなのではないだろうか。

 それから一週間も待たず、俺はイタリアへ飛んだ。仕事ではなく、プライベートで中国以外に行く事は久しぶりだ。
 昼下がりのサン・マルコ広場、あのカフェで、遅い昼食をとっていた時────。
「Buon giorno, Signore!」
 元気な声に振り返る。そこに、懐かしい顔が花を差し出して立っていた。少女は俺に気付くと、嬉しそうに笑った。ほんの小さなあどけない少女だった彼女も随分と大人びたが、相変わらず青空のような瞳は変わらない。
「これを、借りたままだった」
 花の刺繍をあしらった可愛らしいハンカチを差し出すと、彼女のちいさな顔には優しさが満ちた。
「もう必要はないのね」
 ほほえみ返し、彼女の掌に一ユーロを乗せる。
「花を一輪下さい。この花が似合うひとに、贈りたいんだ」
 ハンカチをポケットに入れて、彼女は手に持った薔薇の中で一番綺麗に咲いた花を俺に手渡してくれた。
「貴方の愛するひとは、きっととても素敵なひとね」
 脳の裏側に、彼の顔が浮かぶ。自然と綻ぶ口元をそのまま俺はちいさく頭を下げた。
「Grazie」
 少女はどこか弾んだような足取りで次のテーブルへと飛び去って行った。その姿を見送り澄んだ空を見上げる。

 償えぬ事を知りながら祈りも捨てず、深い苦悩に溺れながら、この命の果てに待ち受ける地獄へと向かい俺は生きる。

 神よ、どうか私を許し給うな────。



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