『瑀琳が来た日』


 それは、バーを開店してから二年半経った、夏も終わろうとしている頃のことだった────。

「は?」
 未だ寝惚け眼だった俺は、突然目の前に開いた現実に追い付く事も出来ず、玄関先でぞんざいに吐いた。剥き出しの苛立ちを一身に受けた天羽さんは得意の困り顔で俯きながらも、一向に引く気はないようで。
「いや、だから、店で雇って貰えないだろうか……」
「は?」
 俺もまた攻撃的な姿勢を崩さず彼の言葉に強く被せる。びくりと肩を強張らせながら、怯えた瞳が俺に向く。
「貴方の店で、雇って頂けませんか」
 言い直したところで何が変わる訳でもない。

 天羽さんが我が家を尋ねて来たのは昼もとっくに過ぎた頃。昨晩ボディーガードと化している彼がいないのを良い事に明け方までしつこく居座った客のお陰で眠りは深く、インターホンが鳴るまで全く目が覚めなかった。そもそも天羽さんに対して苛立っていた俺は眠気も相まってとても機嫌が悪く、しかも輪をかけるように玄関を開けた先で俺を待っていたものは天羽さんだけではなかった。切れ長の一重瞼がとても古風な知らない美青年も共に立っていたのだ。そして誰かも分からぬ内に、彼はその青年を雇えと言い出し今に至る。
 全く天羽さんの鈍感な部分が愛おしくもあるが、こうなってくると考えものだ。とは言え俺の機嫌がすこぶる悪い理由も彼は分かっているようだ。先程から伺うように視線を伸ばしてはまた逸らしている。

 とりあえず青年共々リビングに上げ、お茶を淹れ仕切り直し。意識的に相変わらず高圧的な姿勢は崩さず、足も腕も組んで顎先を持ち上げ問う。
「で?」
 天羽さんは、きっちり揃えた膝のうえに手を添えるようにして重ねている。まるで怒られた子供のよう。それがまた苛立ちを煽る。
「質問を変えようか、その子は一体誰」
 何故か天羽さんを見詰めるその青年はまだ二十歳かも怪しい年代。と言うか、何故天羽さんを見詰めているのかが問題な訳で────。
 そんな俺の気も知らず、彼は惚けたように彼の紹介を始めた。
「瑀琳君だ」
「いや、誰。なに。」
 俯いていた瞳が、矢継ぎ早の詰問に耐え切れず助けを求めるように俺を捉えた。
「なに、とは……?」
 全く、そういう所が鈍感なんだよ。
「天羽さんの、なに」
 彼はそこまで言うと漸く俺がどんな感情を抱いているのか気付いたようで、どこかほっとしたような顔を見せた。
「ああ、いや、中国で出逢って、連れてきました」
 なるほど、瑀琳と言う名で大凡察しはついたが、中国人か。どうもさっきから不自然に天羽さんの顔を見詰めている訳だ。日本語が通じず、本当に不安なのだろう。分かった所で、俺は攻撃の手を緩めなかった。
「性懲りも無く突然いなくなってやっと帰ってきたと思ったら、俺と言うものがありながら、ちょっと綺麗な子を見ると連れて帰って来ちゃうって事」
「いや……」
「絶対無理。いや」
「いや、話しを……」
 完全に尻に敷かれた天羽さんがしどろもどろながらも必死で宥めようとするも、全て徒労に終わらせてやった。
「確かに俺たちは付き合ってはいません。だって、それは許されない事だもの。俺だってちゃんと分かっているよ。でも、天羽巽は蘇芳棗をこの世の何よりも愛しています」
 一気に染まるしろい頬を睨み付けながら、俺はぞんざいに最後の一節を復唱しろと顎をしゃくった。
「ほら早く」
「あの、彼は日本語が全く通じませんので」
 違う。そう言うことじゃない。

 鈍い彼と繰り広げるこの手のやり取りに段々と俺も疲れて来て、長く組んでいた腕を解く。結局何を言っても天羽さんは変わらない。俺に何も言わず日本を離れる癖も、随分と減ったが敬語に戻ってしまう所も。その全てを含め愛しているのだから、それはもう俺の負けだ。
 深く息を吐き、苛立ちを鎮めてから俺はふたりに向き直った。
「もう良いからさ、本当に誰なの」
 天羽さんもそれで心なしか安堵したようだ。
「彼は中国地下教会の指導者の息子さんで、政府に酷い尋問や拷問を受けていて、それで……」
「助けて来たの」
 こくりと頷く彼は、どこかとても後ろめたいような様子だった。俺にはその気持ちが分かる。彼は深い傷を負ったひと。だからこそ目の前で苦しんでいるひとに手を差し伸べずにはいられない。けれどそれが正しい事なのか、何時も考えてしまう。
 人生は、幸福に向かう為のものではない。国を、国に残した家族や仲間を捨てた彼がこの先生きてゆく人生が俺たちと同じように苦悶のうえにあるのだとしたならば、いっそ早く死んでしまった方が幸せなのだから。
 息苦しくなる心地がして、俺は早々にその思考を断ち切った。
「それで、サーシャはこの事を知っているの」
「トルストイ氏の助力でこの国に入れたのです」
「そう、分かった。そう言う事なら預かるよ」
 天羽さんは大袈裟に深く頭を下げた。
「すまない、迷惑はかけない」
 隣にいた青年も、慌てたようにそれを真似る。ふと彼が膝に置いていた指先を見て、俺は一瞬息を詰めた。
 細く長い指先に、ある筈のものがない。拷問と言っていたか。酷い事を────。両手の爪は無残にも全て剥ぎ取られていて、赤黒い血塊が剥き出された薄桃色の肉を所々黒く染めている。傷はまだ新しいものだ。
 生爪を剥がされる痛みを想像し身を震わせていると、天羽さんは恐る恐ると言った様子で口を開いた。
「それで、あの、部屋が見つかるまで俺と一緒に住まわせたいのだけれど」
 天羽さんと俺は勿論、キスはするけれどプラトニックな関係は続けている。稀に俺の鬱憤が爆発しても、何時も俺に弱い彼もそこだけは絶対に犯そうとはしない。苦し紛れに家に押し入って嫌がる彼の素肌に触れるだけ。その程度だ。それも暫くお預けとなると知って俺がまた苛立つと彼は思っているのだろう。残念ながら、瑀琳を前にそんな子供じみた嫉妬を感じてはいられない。
「大丈夫、ちゃんとケアしてあげないと」
 天羽さんはとても安堵したのか、そこで漸く微笑んだ。俺はソファから立ち上がり、瑀琳の隣に腰を下ろした。びくりと竦む肩を抱いて、掌をゆっくりと撫でてやる。
「痛かったろうね、もう大丈夫だよ」
 日本語の通じない彼は、怯えたように天羽さんを見上げる。何を言ったか知らないが、天羽さんが流暢な中国語で何かを伝えたようで、瑀琳は再び俺を見詰める瞳に涙を溜めて頭を下げた。
「謝謝」
 初めて聞いたその声は、彼に似合った透き通るような綺麗な声だった。

 俺たちはその後すぐに今後の事を話し合った。雇うと言っても、言葉が通じないのでは困ってしまうから。
「天羽さん、中国語も出来るの」
「訛りがキツくなければ」
 一体何ヶ国語話せるのか定かではないが、はっきりしている限りでも七ヶ国はゆうに超えている。彼の意外な一面に驚きつつも、それはまた今度聞く事にしよう。
「じゃあ、お店に出ても日本語を覚えるまでは大変だと思うから、通訳してくれる」
「勿論だ」
 天羽さんが仕事の間は困るだろうけれど、暫くは日本にいるから心配はいらないそうだ。これを期に、俺にちゃんと伝えて出国してくれるようになると良いのだけれど。

 結局遅い昼食を俺の家で食べ、俺が店に出るまでその場は解散する事となった。瑀琳も日本に着いたばかりで、疲れているだろうし。瑀琳が店に出るのは部屋も決まり、もう少し彼の心が落ち着いてからにしようと俺たちふたりの意見はまとまった。
「それじゃあ、天羽さんはまた後で」
 玄関先まで見送りに出る俺に、瑀琳はきっちりとしたお辞儀をして見せた。彼はきっと、とても良い子だ。そんな予感がして、不安なんて微塵もない。そして瑀琳が靴を履く為に腰を下ろした時だ。
「棗────」
 突然天羽さんは珍しく俺の名を呼ぶと、完全に油断していた俺の唇にそっと口付けた。
「有難う」
 自分でした癖にあからさまに照れながらそう言う天羽さんを前に、俺は腰が抜けそうになりながらも平静を装い頬を膨らませた。
「ずるいよ」
 彼は何時も突然俺の心を攫ってゆく。

 ふと気付くと、瑀琳は頬を染め、口元に手を当ててこっちを見ていた。
「あ、見られた」
 アホみたいに慌てる天羽さんに、彼は何かを言っている。
「何て言っているの」
 気になって問い掛ける。彼は照れ臭そうに、けれどとても嬉しそうに微笑みながらその意味を教えてくれた。
「とても素敵な方ですね、と」
 中国から海を渡ってやって来た瑀琳は、俺たちの心に光を届けてくれた。俺たちふたりでは決して手に入れる事を望んではいけない、優しい幸福にも似た、温もりを────。



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